下里夢美プロフィール
下里夢美プロフィール
特定非営利活動法人Alazi Dream Project(NPO法人アラジ)
(代表理事)
山梨県出身。世界最貧国、西アフリカのシエラレオネ共和国にて「誰もが夢にむかって努力できる社会へ」をビジョンに活動するNPO法人アラジ代表理事。桜美林大学LA/国際協力専攻を卒業後、2014年から活動を開始し、17年にNPOを起業、法人化。19年には現地オフィス設立。最も困難な状況に陥る子どもたちへの奨学金給付支援・農村部小学校定額給付支援、10代のシングルマザー復学支援・男子中高生への性教育プログラムなどに従事する。また、インタビューやテレビなど多数のメディア出演や、小学校から大学での講演会などにおいて、シエラレオネの貧困に関する諸問題の啓発活動を行う。筑波大学非常勤講師。二児の母。
略歴
- (1991年9月1日)山梨県に生まれる
- (2009年3月7日)ドキュメンタリー番組「世界がもし100人の村だったら」で、シエラレオネの少年アラジに出会う
- (2012年3月)バングラデシュNGO・BRACにてマイクロクレジットプロジェクト視察
- (2013年)特定非営利活動法人「シャプラニール」 インターン
- (2014年3月)桜美林大学 国際協力専攻卒業
- (2014年3月7日)任意団体「夢支援NGOアラジ」創設
- (2014年9月1日)日本ファンドレイジング協会・准認定ファンドレイザー資格取得
- (2015年)特定非営利活動法人「WE21ジャパン」有給広報スタッフ
- (2017年7月7日)特定非営利活動法人Alazi Dream Project設立 理事長就任
- (2021年5月)筑波大学非常勤講師就任
サブタイトル:キャッサバリーフに慣れるまで
このnoteは、シエラレオネで支援活動を行うNPO法人アラジ代表理事(現29歳)、下里夢美の、未知の国シエラレオネに渡航し、衝撃を受けたローカルフードの「キャッサバリーフに慣れるまで」の道のりを書いた、等身大のストーリーです。長いですw
先に書いておきますが、このストーリーは別に私のサクセスストーリーではありません。私はまだ何もすごいことはしていないし、これからも、誰かと競って勝ち上ったり、素晴らしい賞をとったり、すごい有名人になってみたりとか、そういうことは、ありません。
はじめて父ができた14歳、人生全てを変えたシエラレオネと出会った17歳、エボラ禍を経験し2年間渡航することが叶わなかった22歳、はじめての渡航で悔し泣きしながら帰国した24歳、子どもが2人でき、大きく価値観の変わった28歳、それらの過去を未来へと繋げるために、「自分の生きる理念」を忘れないよう、ここに、書いておいてあります。
幼少期〜思春期、家庭内不和
私は、山梨県の田舎町、春日居町(かすがいちょう)というところで産まれ育ちました。
両親は私が1歳になる頃に離婚したため、小学校1年生の頃から鍵っ子で、母は生活保護をもらいながら、町営団地に住み、女手一つで私を育ててくれました。
両親が2人ともいて、休日はきょうだいや家族と出かける、そんな当たり前のことができる他の子の家庭が、ひたすら羨ましかったのを覚えています。
小さい頃、子どもながらに思ったのは「人は生まれた家庭環境によって、将来の可能性が変わってしまうのではないか」ということでした。これはその後の人生の結果次第で、捉え方はいかようにもあるかと思いますが、大学生くらいまでの私は「自分の人生は幼少期、母子家庭で生活保護という、貧困状況に左右されたのでは」という、この世間一般的な因果関係に随分こだわって生きてきたのでした。
うまくいかないことのだいたいの根本原因は、自分の境遇のせいだと思っていたので、小学生時代は、世界は自分中心で周っていると信じており、率先して弱い者いじめを担当、そのまま随分ひねくれた中学生に仕上がったある日、突然母が「彼氏がいるから、再婚する!」と衝撃発言。
なんと、母より18歳も年上の、成人している娘さんが3人もいる、実業家の彼氏(55歳)を紹介されました(!)
思春期、中学2年生。
あっという間に、名字が下里に変わり、父の養子となり、一軒家に引っ越し、3人での生活がはじまりました。私にとっては、初めての異性との同居。しかも、41歳も年が離れているからか、この頑固者の父(現71歳)と私は、恐ろしくウマがあわない。問題は山積みでした。
なかなかハードな人格形成期を過ごしましたが、母はいつもこう言ってくれました。
「夢を描けば、なんにだってなれる
どんなことにでも、挑戦していいんだよ」
シエラレオネとの出会い
高校生になると、吹奏楽の部活に打ち込み、トランぺッターになりました。勉強と部活の両立、家庭環境、どれも辛いことばかりだったのですが、私には、明確な将来の目標があり、そのためならどんな努力も惜しまずに、やり続けることができました。
「将来は世界で一番平均寿命が短い国
シエラレオネ共和国の貧困を解決するために行動する」
17歳の時、テレビのドキュメンタリー番組「世界がもし100人の村だったら」をみたことがきっかけでした。8人の途上国のストリートチルドレンに焦点を当てた番組だったのですが、シエラレオネの男の子、アラジ君のストーリーは、私のその後の人生の全てを変えてしまうくらいの衝撃でした。
2002年まで続いた内戦で、国民の半分は難民となり、アラジ君の両親は、彼の目の前で首を切られ、レイプされ、亡くなりました。
たった8歳の裸足の男の子、アラジ君。弟たちを養うため、日々ガラクタを集め日銭を稼いで生活していました。
内戦のきっかけとなったのは、日本人が3か月分のお給料で買い求める、婚約指輪のダイヤモンド。
良質なダイヤモンド原石が採れるこの国で、手掘り労働採掘者の労働搾取、ダイヤモンドの密輸や武器取引を巡った、政府と反政府軍の複雑な戦いが繰り広げられていたのです。
アラジ君はいいました(写真はイメージです)
「お腹が空いた、でも、勉強がしたい」
私はこの言葉に強いショックを受けました。今、2000年の時代に、わずか8歳の戦争を体験した男の子が、勉強をすれば、家族を幸せにできるかもしれないと考えたことが、心底悔しかったのです。
と、同時にダイヤモンドの消費者である我々日本人は、歴史の傍観者だ。とも思いました。シエラレオネで起きた出来事を無視し続ける、日本や世界に対して、憤りを覚えました。
私には、家族がいる、学校にいって、勉強ができる。
夢を描けば、挑戦し、努力することができる。
でも、アラジ君は、これから先どんな夢を描いても、このまま努力を続けることは難しいだろう。
就職せずに、フリーターに。
その後私は、このテレビ番組を観たことをきっかけに、桜美林大学の「国際協力専攻」に進学、将来、シエラレオネで働きたい、そのためには、どんな団体に所属したらいいんだろう、学生団体は、あるんだろうか?そんな思いで学びはじめました。右も左もわかりません。
期待して大学へ進みましたが、シエラレオネを専門に支援する団体は、日本にはなく、青年海外協力隊もシエラレオネには派遣されず、そして、日本大使館もない国、という情報がだんだんと見えてきました。
例えば、就職して、土日はボランティアしたり、寄付したりして、シエラレオネの貧困問題に貢献していく未来も想像しましたが、いざ就活をするとなると、どうしても企業で働いている自分は想像できませんでした。
「シエラレオネに挑戦しなかったら
死ぬ前に自分の人生を振り返ったときに
絶対に後悔する」
「何にでも挑戦していい」と言ってくれた母。大学卒業後、就職せずに、シエラレオネに行くことは反対されませんでした。
自分にも二人、子どもができた今さらながら、母一人で家庭を支える苦労も少しはわかるようになりました。そんな子育てと仕事の両方に苦労してきた母が、挑戦できると言ってくれたことに、本当に感謝しています。
それから、私は就職せずに、自分でNPOを立ち上げるべく、活動をはじめました。
大学を卒業してすぐの2014年、アルバイトでお金をため、借金もして、返金不可の26万円もする、シエラレオネ行の航空券を買いました。
この写真は、池尻大橋「誠屋ラーメン」で麺を茹でていた頃(笑)
しかし、航空券を買った3日後に、旅行会社からメールが届きます。
「ルンギ国際空港行きの飛行機は
運航不可となりました。
再開の目途は、ありません」
最初の2年間、渡航できず
実は、航空券を購入してすぐ、一人目のエボラ出血熱の感染者が発見され、瞬く間に首都のフリータウンまで感染爆発が起きてしまった、ということでした。
事態はかなり深刻でした。このメールから2年間、エボラ出血熱の流行がおさまるまで、私はシエラレオネに渡航することが一切できませんでした。
大学を卒業し、なけなしのバイト代26万円を、シエラレオネへの航空券代につぎ込んだ私は、まさに出鼻をくじかれた思いで、途方に暮れてしまいました。
シエラレオネに挑戦すべく、就職もせずに準備してきたのに…!涙
未曾有のエボラ禍で、この後2年間も渡航ができなくなるとは、到底考えていませんでした。
しかし、2年間の間に、シエラレオネの想いは1日も途切れることはありませんでした。
「世界のどこに生まれても、夢へのステップを平等に踏める社会にしたい」
私は、個人的に掲げたこの生きる理念に基づき、日本の若者の夢を応援するイベントを開催することにしました。
日本の若者の夢を応援するプレゼン大会のイベントを通して、収益をシエラレオネに寄付し、集まった大勢の方にシエラレオネを知ってもらうというムーブメントです。
第3回ソーシャルドリームコンテストの集合写真
社会をよくしたいという夢を描く若者を
応援するムーブメントになりました。
年に1回、100名規模のプレゼン大会を開催、毎月の小規模のオフラインイベントは延べ200回ほど開催し、同時に私の「シエラレオネの貧困問題を解決したい!」という夢は、新しく実際に対面した1,500人余りの人に届けることができました。
はじめてのシエラレオネ、撃沈…。
そして、2016年5月、エボラ出血熱が収束し、はじめてシエラレオネに渡航することができました。
未知の国、シエラレオネ。
到着したとたんに、目の前に立ちはだかる広い海。
そして、海の向こうの首都、フリータウン。
ルンギ国際空港から、なぜか首都のフリータウンが
海で隔てられている…。
なぜ…?涙
なぜ、こっち側に、空港を作った…(涙)
よくスーツケースを盗まれるという噂の現地タクシーや、よく沈むと噂されるボロボロのフェリーにビビりながら、なんとか海を越え、インターネットも繋がらない、水も出てこない、ネズミの糞だらけの地元の格安ゲストハウスに、なんとか辿りつくことができました。
当時、シエラレオネに渡航する人はなかなかおらず、インターネットには、日本語でほぼなんの情報もありませんでした。人づてにきいた話しや、現地に住む日本人の方を頼っての1か月間の渡航でした。
「自分に何ができるか
この1か月で見定めるんだ!」
しかし、高い海外保険に入り、12本のワクチンを打ち、マラリアの予防薬を握りしめ、意気揚々とやってきた私は、現地で大人気のローカルフード「キャッサバリーフ」に撃沈します。
キャッサバのお芋の葉と、肉や野菜をドロドロに煮込んだ、見た目も味も衝撃の一品。
3日連続キャッサバリーフを食べたあと、日本食が急激に恋しくなり、自然と涙が出てきました。
1週間たった頃、夜中、猛烈な腹痛で起きました。
停電中でした。ネズミとゴキブリが足元をうろつく、真っ暗なトイレにうずくまり、バケツに貯めた水を確認しながら「救急車って、くるのかな…?涙」とうなだれる。
深く、シエラレオネに来たことを後悔しました。
全然わからない、クリオ語。
1歩外を歩けば「チンチョンチャン!」とアジア人を揶揄する差別の嵐。
出かける約束をしても、時間通りに来ない人たちへのイラだち。
慣れないローカルフードに、長引く熱。
高いお金をかけてインターネットに繋ぐも、未知の場所に連れていかれ、Googleマップに殺されそうになる日々。
観光名所、コットンツリーの前にむがるストリートチルドレンや、赤ちゃんを抱えた女性たち、足のない車椅子の人々に、「ギブミーマネー」とすごい勢いですり寄られ、ビビッて逃げる毎日。
「貧しい国にただ学校を建ててあげても、何の解決にもならない、大人たちに就労してもらうことが正しいはずだ」
と息巻いて、農村部へ足を運ぶも…
1日1食しか食べられず、それでも勉強がしたい、学校が欲しいとすり寄ってくる、お腹が出た子どもたち。
SDGs(持続可能な開発目標)なんて知らない、初等教育も受けたことがない農村部の大人たちに、ただただ衝撃を受ける日々でした。
そうして、一度目の渡航、私の行動は、何にもならず。
悔し泣きながら帰国すると、2年半同棲していた婚約者は、私の渡航中に浮気をしていたのでありました。
ちゃんちゃん…。
母「そろそろ就職とか結婚とかね」
キャッサバリーフになかなか慣れない渡航を1年半で3回繰り返す私に、両親は毎回この言葉を投げてきました。当時25歳。内心、やりたいことをやるのは構わないけれど「毎回死ぬほど心配だし、一体いつ辞めてくれるんだろう…?」と思っていたに違いありません。
渡航するための資金が足りず、100万円ほどリボ払いで借金を重ねていました。もはや、すべてが無知でした。
しかし、めげずに何度も足を運び、現場での波乱万丈をSNSで発信し続けていくうちに、渡航費を支援してくださる方や、まだ任意団体の私たちに寄付をしてくださる方が増えました。
寄付をもらってしまったら、いよいよ辞められなくなるな…。
はじめは、こんな本音もあり
人から応援される恐怖もありましたが…。
自然と覚悟をすることができ、3度目の渡航後に、日本で活動していた2年間の間に、身近で応援し続けてくれた10人の理事と一緒に、「NPO法人アラジ」をつくりました。
あの日、テレビでみた男の子アラジ君から、NPO法人アラジができたのです。
その後も、諦めずに挑戦していくうちに…
2017年には、火事で家を失ったテーラー15名と一緒に、シエラレオネの魅力を伝える、アフリカ布の商品制作事業がスタートしました。
同年、農村部での小学校支援もスタートしました!(現在までに3校、延べ1,000名へ支援を届けています)
その後も、都市の土砂災害で両親を失った子ども10名の里親宅に、継続して現金給付を届ける、支援事業がはじまりました!(現在継続して、最貧困家庭の里親家庭・片親家庭の子どもを選定し、首都フリータウンとケネマ県で、述べ25名へ支援を届けています)
また、2018年には、首都フリータウンに現地オフィスがオープン、2021年にはケネマ県にも現地オフィスがオープン、現地スタッフは3名になりました。
シエラレオネの国営テレビ番組、ラジオ放送にも取り上げられ、その様子を、テレビ東京「世界ナゼそこに?日本人」に同時に密着取材される、という経験もしました。
大変驚いたことに、シエラレオネのビオ大統領と並んで新聞の一面記事にもなりました。
その頃、当時から支えてくれた現旦那さんである、支倉(はせくら)副理事とのお付き合いがスタートしました。15年以上も自分の会社を経営する彼には、会計・税務やNPOの法的な事務作業に大変貢献していただきました。
「シエラレオネで超有名なユメ!」というタイトルで「世界ナゼ?そこに日本人」という番組が放送されたのは、現地オフィスオープンの5度目の渡航から3か月後の2019年8月でした。(すいません、この番組タイトル(特に超有名の部分)と内容には、たびたび語弊があり、いつかnoteに書きますね。笑)
相変わらずアルバイトをしながら、現地を5回も行ったり来たり、無茶苦茶をやっていましたが、今まで心配していた親や親戚、地元の友達は、テレビの前でスタンバイしてくれていました。
「テレビみたよ!頑張ってるね!」
「高校の時からの夢を実現していて、感動した!」
「これからもずっと応援するね!」
番組が終わった後には、今まで心配をかけ、どこか納得していなかった両親からも、激励の言葉をもらいました。
私の活動に対して、心配し、反対していた人でさえも、応援してくれるようになった。
この現状はある意味、テレビに出演して、世間一般的な結果を出せたことで、「大勢の人に認知されている人の行動は正しい」と単に思う、オーディエンスの心理的要素の一つでもあるのかなと思いますが。(ここらへん、性格が歪んでおりますw)
これからも、応援してくれる人たちを後悔させない。
応援していてよかったと思われる活動をしていこう。
と胸に刻んだ経験となりました。
妊娠と出産を得て、大きく変わった価値観
しかし、実は番組放送中の私は、2か月に渡る体調不良で、寝込んでいる状態だったのでした。
「世界ナゼそこに?日本人」の番組放送で、今まで心配をかけてきた、たくさんの人たちに認められたような気がして、嬉しい反面、長らく続く体調不良に対しては、懸念がありました。
実は、現地オフィスをオープンした直後の帰国後に、妊娠していることがわかったのです。テレビ放送で大きな反響があったのですが、つわりでまったく動けない状態でした。
今の旦那さんとは、お付き合いを開始して「すぐに結婚しよう、活動を大きくする前に、子どもも欲しいね!」という共通の希望もあり、妊娠したことは嬉しかったのですが、同時に、私たちが渡航しているときにしか物事が進まない、現場でのあらゆるプロジェクトをなんとかしなければ…という焦りもありました。
妊娠後期、学生インターンの瀬谷に現場での活動をおまかせし、産後2か月で、旦那さんである支倉事務局長に、自身の会社を休んで、2週間の渡航をお願いしました。
この渡航期間に、大活躍してくれたのが、その際にアラジの現地スタッフとしてコミットしてくれた、シア・ブライマ、当時23歳です(写真右)
現地大学で学士を取得しすぐのアラジへのジョイン。支倉が帰国後も、きちんとまかせられた業務を遠隔でこなしてくれ、現場でのプロジェクトを彼女主導に切り替えてはどうか、という話しが理事会にもあがってきます。
彼女に、現地スタッフとして活躍してもらおうという決心がついたのは、産後3か月目に訪れた、第二子の妊娠でした。(想像以上に早かった!笑)
「2人目も妊娠しているから、当分シエラレオネには行けないし、あなたにも会いたいから、いつか日本に招待したい!」
というメッセージを私から送ったのが、2019年の9月。
現地スタッフのシアからは
「ぜひ日本に行きたい!」
という言葉が返ってきました。
そして、その次の日になんと、ガーナの日本大使館に連絡し、短期ビザ取得の書類をすべてそろえ、PDFにしてメール添付してきたのです。
若干24歳にして、この情報収集能力と、決断力。
この機会に日本に招待して、今後のプロジェクトの方針や、業務のすり合わせ、私たちの想いや価値観を、きちんと共有しておこうという意味も含め、私は、短期ビザ取得の決断をしました。
シエラレオネには日本大使館がないため、相応で10以上の書類を用意し、日本からも原本書類を海外発送し、シアがそれらを持って、日本大使館のある隣の隣の国ガーナまで小旅行し、ガーナで5日間かけて日本への短期ビザをゲットする、という途方もない作業を2人でクリアしていきました。
それから、2か月後の11月に
彼女は本当に日本にやってきます。
彼女の来日に関して、たくさんの方にサポートいただき、理事会への参加、活動報告会での登壇、またサポーターさん達による観光案内など、充実した2週間を送ることができました。
「どうしてアラジに就職してくれたの?」
という日本のサポーターさんからの質問に…
「こんなに遠い発展している場所から、毎回飛行機を乗り継いでやってくる、代表のYumeさんのパッションに圧倒されたから。シエラレオネ人の私自身も、将来の子どもたちの力になりたい。」
と毎回答えてくれたのは、嬉しかったです。
私は、彼女に日本の文化や歴史に触れてもらい、経済発展し充実した社会保障があるけれど、人との交流が薄れ、過労による自殺者も多いことなど、いい面も悪い面も、彼女にじっくりとシェアしていきました。
日本を心底気に入ってもらえるといいなと思っていたのですが、彼女の日本への反応はかなり以外なものでした。
「ドラマや映画で発展については知っていたから、あまりビックリはしなかったわ」
「スーパーに山ほど商品が積まれているけど、口にあうものを探すのが大変。寒いし、日本人は英語はしゃべれないし、ここでは暮らせないわね。」
正直…(笑)
そして、意外な考えというか、これはアフリカ代表としての意見なんではないか、というような貴重な言葉もありました。
「日本人は忙しくて、道端でおしゃべりなんかしない。でも、シエラレオネが日本のように発展しても、人々が挨拶を交わしたり、地域と交流したりすることを、辞めずに成長していける。」
彼女は、こう断言して、颯爽と帰っていったのです。
現に超高齢化社会のロールモデルである私たちの蓄積されたノウハウは、これから超加速するアフリカ経済へもきちんと落とし込まれるであろうし、資本主義社会から、福祉社会を目指すことが私たち人間の最終目標なのかなと最近考えることもあり、彼女の意味深なセリフには、妙に納得感もあったのでした。
この時から、シエラレオネに身を捧げたい!と思っていた私の価値観は、大きく転換していきました。
私たちの想像で物事を決めるのではなく、シエラレオネ人自身がオーナーシップをもって、将来の子どもたちのために、主体的に行動していくことが一番大切。
現場の人々の発展を信じて、現場のスタッフ主導に切り替えていこう。
この想いの転換を機に、私たちは、理事会やサポーターさんの意見をもとに、プロジェクトを立案していくのではなく、まず現場に住み、プロジェクトを実際に実行する、現地スタッフや現地パートナーの声を一番に尊重する、という行動にシフトしていきました。
2020年にCOVID-19感染症予防のための啓発活動や、感染予防物資の配布、緊急食糧支援などを行いました。現地スタッフのシアに、小学校支援を展開しているポートロコ県への食糧支援の段取りをまかせたところ…
トラックを手配し、ボランティアの男性を3人アテンドし、アラジが過去に作成した住民票をもとに、農村部の住民約1,300名一人ひとりへ、食料を平等に届けることに成功しました。
シアという人間個人の、今後の働きの可能性に対して、個人的には、あまり大きな期待はしていません。
誰もが、自分と同じパッションを持ち、自分と同じようなキャパシティで働けるとは思っていません。
まずは、シアを、妹のように信じていると、言って聞かせる。
そうして、アラジでは、充分な給与のもと、心理的に安心して、働いてもらう。
アラジを成長の土台にしてもいいし、安心して得た活力によって、新しいアイデアを創造し、個人的に、次なる行動してもいい。
シエラレオネの人々を、俯瞰的に見る、信じる。
このことができるようになったことによって、アラジの活動は飛躍的に進歩し、より遠くまで支援を届けることができるようになりました。
17歳の私に、アフリカが教えてくれた、努力の正体とは
下里さんは挑戦力がある
バイタリティがあって努力し続けている
私は、活動をしていく中で、何度もそんな風に言われてきました。
「私が苦労し、努力し、挑戦してこられたのは、なぜなのか?」
それは、私が特別だったわけでも、天才だったわけでもありません。
私には、親の借金や介護もなく、自分自身に病気もなく、勉強を小学生から大学まで16年も続けることができた。一見当たり前のようなことですが、それらに恵まれていた。ただそれだけです。
特に、大学に行き、人生の恩師となる先生に出会い、その後の道を切り開くことができたのは、母が頑固者の父と再婚し、学費を払ってもらえてことが大きかったと思います。
その後も、支倉常明という、経営経験豊富な人物がアラジに参加し、のちに結婚し、家事に育児に役割分担もせずに積極コミットしてくれたから、今の活動を続けられています。
アラジでは現在も、農村部の学校に通うことのできない子どもたちや、都市部で両親を失い、勉学を続けることが困難な子どもたちのサポートをしています。
1日1食しか食べられず、勉強どころじゃない、努力したくても、働かなければならない、挑戦したくても、チャンスがない。
そんな環境にいる子どもたちには、バイタリティーすら生まれません。
例え、夢を描いたとしても、努力し続けることは難しいでしょう。
努力とは…
努力とは、目標を実現するために、心や身体を使ってつとめること。
であると言われています。
まずはじめに、そもそも努力できること。心と身体が、充実していること。
挑戦し続けられることは、当たり前のことではなく、本当に尊いことなのです。
私には、「安心や安全」という努力できる環境が、はじめから整っていただけなのです。
自分だけが成功できたと思う人は、周りの恵まれた環境に感謝し、これからは努力の継続が難しい人のサポートをするべきです。人間、人より自分が有利と、優越感に浸ったら、そこまでです。
自分が今、努力できていると考える人は、自分だけが物語の主人公だと思ってはいけません。思うように努力を積み上げられない人とぜひ一緒に歩んでください。
アフリカの人は、努力が足りない。時間を守らない、働かない。
だからいつまでも経済発展しないんだ。
よくこんな言葉を耳にします。
でも、本当にそうでしょうか?
初めから、アフリカは課題ばかりだから、何かをあげたい、教えてあげたいというマインドで彼らのもとを訪れることはよくありません。尊厳を持って働いている人もおり、失礼になる可能性もあります。また、結果だけをみて、努力が足りないと、決めつけてはいけません。
「魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えてあげる」
という言葉がありますが、そもそも最低限の衣食住のない人々に対しては、まだまだ差し上げる支援は必要です。魚を釣る体力もなく、釣り道具に投資する最初のリスクさえ負えないのかもしれません。彼らの生活する場所には、そもそも魚がいないのかもしれません。
私は初等教育を完了しないひとに、細分化された手作業などの雇用を与えることには、賛成しません。昨今話題のソーシャルビジネスにおいても、ビジネスですから、絶対的にリスクはあります。日本のコロナ禍の飲食店のように、外的要因で経済的に弱い立場になってしまったときに、公的な社会保障がなければ、人生レべルで立ちいかなくなる可能性があります。
里親家庭・片親家庭など弱い立場にある子どもが中等教育まで完了できない場合には、今すぐにでも公的なサポートがなされるべきです。しっかり読み書き計算を習得し、その後に幅広い未来を描く。どんな経済状況に陥っても、手を変え品を変え、生きていけるようになることが重要です。同時に社会課題解決の手段として、ビジネスだけではなく、何かあったときに頼ることのできる「公共の福祉」の充実も忘れてはならないと考えています。
努力は精神論ではなく、方法論なので、努力できる環境を整えることができれば、人は目標にむかって、変わることができると私は考えています。
私の考える方法は、尊厳を持って働くシエラレオネの人々自身が、機会を失ったシエラレオネ人を助けること。
そのサポートを、生涯かけて、すべきだと思っています。
私は物語の主人公ではなく、課題の代弁者です。
未来の私たち
私たちは、これからも、首都フリータウンにおいて、両親を失い勉学を続けることが難しい、里親家庭・母子家庭の子どもたちへの毎月の現金給付支援や…
農村部においては、小学校への教材・給食費の定額給付支援などのサポートを続けていきます。
アラジがサポートを続けて1年後に
やっと笑顔を見せてくれるようになった
災害孤児のマチルダ、13歳。
より詳しい支援活動については、ぜひHPをご覧ください。
私たちが、より遠くへ挑戦し続けられているのは、毎月1,000円(1日33円)をサポートし続けてくださっている、マンスリーサポーターの皆様のおかげです。
実は、一度の大きな寄付よりも、毎月少しづつ支援をして下さる人がたくさん増えるほうが、活動としてはリスクが少なく継続性があり、計画も立てやすいため、とてもありがたいのです。
もし、マンスリーサポーターとして、アラジに参加したい!
一緒に子どもたちの未来を変える、アラジの仲間になりたい!
という方がいましたら、「shimosato@alazi.org」へご連絡ください。
1対1のオンライン面談で、詳細をご案内することも可能ですし、アラジ公式HPから、そうっとご支援くださることも可能です。
最後に、この写真は、シアが来日した時に、作ってくれたキャッサバリーフです。
この味と、この辛さ。この匂い。
一口食べる度に…
「はじめて災害孤児の子どもたちに会った夜、大泣きしながら、キャッサバリーフを食べた。近所中に聞こえる号泣で、皆に心配されたっけ」
「現地の高級レストランでもキャッサバリーフが出てきたときには、本当に絶句した(苦笑)」
「でもシエラレオネのみんなと一緒に、汗だくで囲むキャッサバリーフは、本当に最高だった」
と、いろいろな想いが込み上げてきました。
シアは日本食が口に合わなかったため、滞在中の貴重な食糧だったのですが、気づいたら、ほとんど私が食べてしまいました。(ごめんね、シアちゃん…)
「Please come again with Cassava leaf Sia chan!」
気付けば、キャッサバリーフは私の大好物になっていました。
コロナ感染症が収束し、シエラレオネにまた安全に渡航できる日がくることを切に願っています。
そして、いつも現場で奮闘してくれている現地スタッフや、現地パートナー団体には本当に感謝しています。
また、顔の見えないシエラレオネの人々を想い、努力して稼いだ貴重なお金を、毎月サポートしてくださる日本の皆様に、心から感謝いたします。
私にできる唯一のことは、健康に学び続け、行動し続け、現状を変えるために努力し続けることだと思っています。
70歳まで、この活動を続けていく、覚悟はできています。
小さなストリートチルドレン
赤ちゃんを抱っこし物乞いを続けるガリガリに痩せた女性
シエラレオネに行くたびに、”何もできず”無力な自分が嫌だった。
でも、今の私たちなら、できる。
コットンツリーの前に物乞いが並ぶ、あの景色を一掃できる。
これからも、アラジがもっと遠くまで行き、一番サポートを必要としている人々の最初のチャンスになれるよう、応援していただけますと幸いです。
たまに、ライン公式アカウントも更新しています。ぜひ。
最後に、1対1お話し会を毎日開催しています。
ご質問がある方や、ご支援に関心のある方は下記より☟
ぜひどうぞ。
下里夢美
下里夢美ライン@
定期配信◎